【インタビュー】八尾智子さん 腹膜癌 ステージ4 サバイバー

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腹膜癌 ステージ4 サバイバー 八尾智子さんのインタビューです。

目次

基本情報

名前: 八尾智子さん >>5yearsプロフィール
年代: 50代、女性
病名:腹膜癌 
病理:漿液性腺癌
進行:ステージⅣB 
発症:2015/4 
発生時年齢:48歳
受けた治療:試験腹腔鏡下両側付属器切除(卵巣卵管)+腹膜播種生検、抗がん剤治療(TC療法)パクリタキセル+カルボプラチン 
 胸水ドレナージ   
期間:2015/4月~9月 
合併症:癌性胸膜炎
職業:事務 
生命保険:主人の会社の共済会保険・日本生命・COOP共済

>>八尾智子さんの「ストーリー」はこちら

>>八尾智子さんの「がん経済」はこちら

2014年・秋、胃腸の調子が悪いのに病院には行かず、漢方を服用されています。なぜ、病院に行かれなかったのですか?

もともと胃腸は丈夫ではなかったので、何時ものことかな?と思いました。しかも当時は、毎日の仕事に家事、子供の塾通いの準備など、忙しくなかなか病院に行く時間もなかったです。耐えられない痛みとかではなかったのと歳のせいで更年期の症状かとも思って行かなかったです。

2014年・秋のころ、食欲がわかず食事をあまり食べられなかったと伺いました。どれくらい食べられなかったのですか?

今まで食べていた量の半分位しか食べれなくなっていました。朝食もパンと飲み物だけで、昼食は自分で作った小さなお弁当箱の量を食べきれず残していました。夜はパンを少し食べたり果物を少し食べたりシリアルを牛乳で柔らかくして少し食べたり、お粥を少し食べて過ごしていました。

2015年1月、下の娘さんが中学2年生で塾通いをしていた時、八尾さんはパートの仕事、夕食づくり、家事等で、とても忙しかったと伺います。その頃の体調はどんな感じでしたか?

毎日身体が怠くてしんどかったです。身体の怠さの為、栄養ドリンク剤を飲んで頑張っていました。体調の悪さは具体的には胃の圧迫感、気持ち悪さ、朝、胃が痛くて目が覚めることもありました。あとは肩こり、首の凝りに頭痛、目の奥の痛みと両足の付け根のなんとも言えない痛みがありました。そして友人と一緒に歩いていたら、ついて歩けないほど息苦しさを感じ、私の体力はここまで落ちているのかとも思いました。
仕事から帰って座る間もなくご飯作りなどしていたので、子供が塾に行ったあと横になっていることが多かったです。

体重がピーク時から6kgもやせていきます。どんな心境でしたか?

初めは体重が減って痩せてきてダイエットができいいかな?ラッキーなんて楽観的に考えていましたが、会う人会う人に「痩せた?」と言われ短期間に痩せすぎて少しヤバいかな?とも思い始めていました。

2015年2月近所のクリニックで診てもらったとき、インフルエンザだけで終わります。なぜ、詳しい検査が行われなかったのですか?

診療終了間際に診てもらったことと、インフルエンザが流行っている時期が重なって、自らも他の血液検査などして欲しいと言わなかったのと早く帰宅して横になりたかったからかもしれません。

やがて、お腹をくだし下痢の毎日になります。当時の様子を教えてください。

2月は仕事が忙しい時期で、なかなか仕事中にトイレにも行けない状況の時、1時間おきに席を外してトイレに籠ってしまう状態でした。会社帰りの電車に乗っていてもお腹が痛くなり途中下車してトイレに行くことも何度かありました。

下痢が止まず、色が黒っぽくなった時の心境を教えてください。

体重もかなり落ちていて便の色も今まで見たことのない色だったので、もしかしたら悪い病気では?と不安になりました。

2015年3月12日に胃腸科専門のクリニックで診てもらったら、血液中のCRPが高く胃カメラはできないと言われます。どんなお気持ちでしたか?

CRP炎症反応が高いとはどういうことなのか、全く分からず一体、自分の身体はどうなっているんだろう?とすごく不安になっていました。

自転車をこぐと息が切れてしまいます。当時どのように感じていました?

歳のせいか?更年期なのか?疲れが溜まっているのだろう位しか思わなかったです。
でも電車に乗っていて隣の人の息遣いを気にして見ていると、自分の呼吸の速さがおかしいな?と思う時もありました。

造影剤を入れてのCT検査を受診し、その後受け取ったCTの画像プリントに「悪性腫瘍の疑いあり」と書かれていました。どのように感じましたか?

初めて造影剤を使ってのCT検査を受け怖かったのを覚えています。そして渡されたプリントを見て悪性腫瘍=ガン?私がガン?うそでしょ?何かの間違いでは?と思いましたが体重減少に食べれないという事実でもしかしたら胃癌か大腸癌なのかもとも思いました。

友人に大きな病院にすぐにいくように言われます。その時の心境を教えてください。

「そうだよね、なんかやばい病気なのかもしれないから明日にでも早く行かなければ」と思いました。彼女が私の状態を見て背中を押してくれたのだと思います。
彼女の背中を押す助言がなかったら私は大きな病院に行くのをまだ先延ばしにしていたと思います。ずっと病院に行くのをためらっていて、友達にすぐ大きな病院に行きなさいと言われたことは事の重大さに気づかされたように思われました。
彼女に会って大きな病院にすぐ行くように言われたことは私にとって、とてもラッキーだったことだと思います。

紹介状なしで京都大学医学部附属病院に行き診てもらいます。そして消化器の病気ではなく悪性リンパ腫の可能性と告げられます。どんなお気持ちでしたか?

胃の調子が悪かったから胃癌か大腸がんなのかと思っていたのに、悪性リンパ腫って何?
って思いました。

血液内科で診てもらったときはかなり体調が悪化していたと伺います。どんな状態でしたか?

ほとんど食事が摂れず蒸しパン、お粥など柔らかいものを少しだけ食べて果物ジュースを少し飲んでいる状態だったので血液検査で栄養状態が悪く、先生がしんどいでしょう?栄養の点滴をしてあげると言ってくださり点滴をしたのを覚えています。
血液内科からの予約でPET検査を他の病院で受けることになり歩くと息切れがし、ゆっくりとしか歩けず病院に行くまで途中、少し歩いては立ち止まって休みその繰り返しでした。

50%の確率で悪性腫瘍と言われた時の心境を教えてください。

今まで大きな病気をしたことのない私が、もしかしてガン?そんなことあるの?
親戚にもガンになった人が居ないのにと思いました。

大変な頃、なぜ娘さんの歯科矯正の治療に一緒に行かれたのですか?

3/28に歯科医に行っているのですが、ますます体調が悪くなっていきガンかもしれない、今度いつ会えるのか?もしかしたら最後になるかもしれない、挨拶をしておかなければ、小さい頃からずっと診てくださっていた先生に今後の娘の事をよろしくお願いしますという事を伝えたくて行きました。

「私、もしかして死ぬのかな?」と思われたと伺いました。恐ろしかったですか?

はい。恐ろしかったです。日に日に悪くなっていく自分の身体が、もしかしたら子供二人残してこの歳で死ぬのか?親より先に死ぬという事は逆縁と言って一番してはいけないことと父から聞かされていたので、親より先に死ぬ親不孝なことをしてしまうのかと思いとても恐ろしかったです。

呼吸器内科で胸水を抜く処置を受けました。その時の状況を教えてください。

上半身裸になりバスタオルをかけられ椅子に座って子供が授業中伏せて机で寝ている格好で脇下に麻酔をして注射器で3本抜き取った感じです。自分でも震えていた感じが分かりましたが上半身裸で、若い男性医でしたが、もうどうにでもしてくれって感じでした。

骨髄穿刺(こつずいせんし)を受けました。どんな検査だったか教えてください。

うつぶせになり腰に麻酔をし、大きな注射針を腰の奥深くグッと刺されました。針を刺した所にガーゼを貼られ検査した当日の入浴、シャワーは禁止されました。そして翌日、絆創膏に張り替える様に指示がありました。
器具を見ると恐ろしくなるので見ることは出来ませんでしたが、先生が優しく声かけしてくださったので助かりました。

色んな検査を受けて、血液内科から次は婦人科で診てもらうように言われた時の心境を教えてください。

骨髄穿刺の検査までして50%悪性リンパ腫だろう、悪性リンパ腫には抗がん剤がよく効くので治りますよって言われたのに、結果は「悪性リンパ腫の悪いものはなにもないです」と悪性リンパ腫は否定され、次は婦人科に行くように言われ何で婦人科?って思いました。50%の悪性リンパ腫じゃない方の病気はなんだろう?と思いました。
会社を休職する時に病気療養するため挨拶をし、仲の良かった同僚には悪性リンパ腫みたいで、でも抗がん剤がよく効くって言われ、必ず戻ってきてね、待っているからと言われ、うんと返事したのに違うんだ、どうしようと思いました。

ガソリンスタンドで給油中に、血液内科の女性医師から電話がかかり婦人科癌の腫瘍マーカーが高いことを伝えられた時のお気持ちを教えてください。

さっきまで先生と話をしていて悪性リンパ腫だと化学療法をすぐ始めれば予後はいいけど、ステージで言うならステージⅢ。PET検査で卵巣が腫れているので卵巣ガンの疑いがあり、卵巣ガンだと自分の専門外で学生時代での知識しかなく、よくは分からないが進行はかなりしている。でも自分の学生時代より医学は進歩しているからと言われたことを思い出し、そして私の知識の中でも卵巣がんはサイレントキラーと言われる怖いガンであったのと悪性リンパ腫でステージⅢって言われたのに卵巣ガンだとステージは何?恐怖と悲しみ、子供達を残して私は死ぬのかと思いました。

ガソリンスタンドでその電話を受けたあとのご主人の様子を教えてください。

「とにかく明日婦人科で診てもらおう」とだけ言って黙っていました。

当時、ご主人は会社の仕事と八尾さんの病院送り迎えをどのように両立されていましたか?

3月末は家内の病状があまり良くなく病院に連れていくのでと言って会社には有給休暇の消化をしないといけないこともあり休みを取っていました。
抗がん剤治療中は同僚には私がガンで抗がん剤治療をしていることを打ち明けて半休を取ったり有給を使ったりしていました。あまりにも半休、有給を取ることに周りが何故?と思われるので話をしたと言っていました。

息苦しくてお風呂に入るとゼーゼーして風呂からあがると倒れ込むとはどんな状況だったのですか?

身体を洗っていてもシャンプーしていても息苦しくて、お風呂から上がって化粧水もつけることが出来ずに、じっと横になっている状態でした。胃の辺りに圧迫感があり前屈みになるのが苦しかったのです。座っていても身体を少し反らしていないと苦しかったので横になっている方が楽だったのです。

婦人科を受診したら担当医が異動してしまうと言われた時の心境を教えてください。

なんてタイミングが悪いのだろう?誰が私を診てくれるの?と思いました。
もう少し下調べ、外来表など見て教授に診てもらった方が良かったのかなとも思いました。実際その当時は、そんな余裕はなかったですが。

大事な検査入院直前に高校時代からの友人二人と会われた理由を教えてください。

もしかしたら自分は死ぬのではないか?もう友達とも会えなくなるかもしれないと思い
お別れの挨拶をしなければと思い連絡をして会いました。そして直接自分の口から状況を
説明しておこうと思いました。体調が悪くなってから秋頃会った時もご飯があまり食べられないと心配かけていましたので。今思えばお別れの挨拶をしなければなんて思っていたのがおかしい位ですが、その当時は心のどこかで死を覚悟していたのかもしれません。

大腸内視鏡検査をしたら内視鏡が入らなかった理由を教えてください。

腹膜に出来たガンが腸の壁を圧迫していて腸が細くなってスコープが通らなかそうです。

長期間、病名が決まらず治療が始まりません。その頃の体調と心境を教えてください。

原発不明癌と言われ治療も出来ず不安で不安で病院に入院していても何の治療もなく、どんどん自分の身体の状態が悪くなっていき不安でたまらなかったです。早く病名が診断され早く治療してほしいと思いました。
その頃、病室からトイレや洗面所に歩いて行くのも苦しく、手すりを持ってゆっくり休み休み歩いていました。そのうち呼吸がどんどん苦しくなり夜寝ている間は酸素を付け始め、その後、手術まではずっと一日中酸素を付けトイレもポータブルトイレでした。
大部屋でのポータブルトイレは抵抗がありました。あとの移動は車椅子で看護助手さんに移動させてもらっていました。ほとんどベットにいた私はかなりの重症なのかとも思いました。
検査入院でも出された食事は取れず、毎食後、看護師さんに食事何割食べられたかを聞かれるのにゼロか一口から三口としか答えられないのに申し訳なくも思ったりもしていました。そして病院が自宅から遠いため家族には会えず、メールやラインの家族や友達とのやり取りが唯一の慰みでした。毎日ラインをしてくれた友達もいて私は何て友達に恵まれているんだろうと改めて思いました。週末は体調が悪いけれど外泊で一泊自宅に帰り少しでも家に居たいと思いましたが外泊から病院へ戻る時はいつも車の中で泣いていました。不安と、この先どうなるのか?下の子が受験生になったのに何もしてあげられない思いで悲しみばかり感じていました。ちょうど下の子の誕生日も入院していて、外泊して遅れて自宅で誕生日お祝いをし、来年もお祝いしてあげれるのか?と心の中で思っていました。上の子も短期留学が決まって色々準備をしてあげられないな、成人式の準備もどうしようか、あと軽度認知症の母のことはどうしようか?父も入院しているし妹にばかり負担をかけるなと、いろいろ考えてしまっていました。

緩和ケアを勧められた時、どのように感じましたか?

緩和ケア=ホスピス=死というイメージがあり、まだ病名も定まらず治療もしてないのに受ける気になりませんでした。実際には痛みを和らげる治療だったみたいですが。

どういう経緯で「腹膜がん」という診断がついたのですか?腹膜がんと言われどのように受け止めましたか?

最後に受けたMRI検査で腹膜癌だろうって言われましたが腹腔鏡手術で診断されました。
腹膜癌というのは初めて聞いて一体どこの癌なのか分からなかったくらいです。
聞いたことのない癌の病名で治るのだろうか?卵巣癌と同じくくりだと言われ状況は厳しいのだと思いました。

試験腹腔鏡手術を受けあとの状況を教えてください。

手術で両側の卵巣卵管は切除されていましたが子宮は残されていて術後出血がなかなか止まらず、結局は最後の生理でした。そして胸水を抜くためのドレーンを両側に付けていた為、自分一人ではベットから出ることも出来ずトイレもポータブルトイレでする際、看護師さんを呼んで胸水を溜めているケースを移動してもらい動いていました。歯磨きもベット上で行っていました。
ドレーンを付けている所の痛みの方が手術の傷より痛く痛み止めを飲み続けていました。腕を動かすと痛み、動作も恐る恐るで手を動かすのも大変でした。手術の翌日から抗がん剤治療が始まり体力的にもずっと食事が取れていなかったので、体力もなく立ち上がれず血圧も低く頭の中が白くなっていく状態が続いていました。生まれて初めての抗がん剤治療は手術翌日ということもあり、身体がどんどん重たくなり苦しかったのを覚えています。
勿論シャワーも浴びれず全身湿疹ができ、初めは抗がん剤治療による薬疹も疑われましたが薬疹ではなくあせものようなものだったみたいで、頭皮にも湿疹ができ痒くて、ステロイド軟膏に飲み薬が処方されていました。軟膏もドレーンが両側についていたので自分では塗れず看護師さんに毎回全身塗ってもらっていました。湿疹の跡が抜けた髪の毛のない頭皮にも長い間残っていました。
胸水も箱に一杯になり何度か交換しました。人の肺にこんなにも血液、水が溜まるものなのかというくらい出てきて一度に抜き取るのは危険という事で何回かに分けて流していました。ドレーンのチューブを見ていたら気分も悪くなり、途中で止めてもらうこともありました。

入院してのTC療法はいかがでしたか?

初めは自宅から病院が遠かったので家族もなかなか来てもらえない中の抗がん剤治療は、寂しさと不安で一杯でした。術後二週間も個室だったのと、自分一人では動けず孤独でもありました。話し相手が看護師か担当医だけでしたから。
1クール目は、どのような副作用が出るか分からないので、1クール終わるまでずっと入院して様子をみることになりました。2クール目からは2-1回目2-2回目まで入院し2-2が終わると退院して2-3回目から2泊3日で入院して抗がん剤治療をしていました。その時の体調によって入院期間はかわっていましたが、慣れてきたら基本2泊3日での抗がん剤治療をしていました。
大部屋での入院治療は友達もでき、いろいろ話をして合宿のような感じになっていました。給湯室でお茶して話して、ティーパーティーしようなどと言ったりもしていました。私が治療中は割と明るい感じで変な言い方かもしれませんが楽しかったです。その時のガン患者の友達は幅広い年齢層で、本当にいろいろな話をし勿論今も連絡は取りあっています。抗がん剤治療で得た大事な友達です。
二回くらい早く自宅に帰りたいと思い1泊2日で抗がん剤治療をしてみましたが、さすがにハード過ぎてやめました。

抗がん剤治療に対するイメージが怖かったにもかかわらず、治療を受けました。どうやって受け入れられましたか?

まず、担当医、看護師からの抗がん剤治療についての説明を受け、昔とは違い今は吐き気止めのお薬を上手に使って治療すると言うのを聞いて少し安心し、私も頑張れるかと思いました。あと検査入院していた同室の抗がん剤治療をされていた方、先輩である方達の姿を見てから、抗がん剤治療のイメージが変わりました。
皆さん明るく治療されていてガンになったことはゼロにはならないし、病院のスタッフは素晴らしいからガンを受け入れて治療するしかないって言われ、その通りだなと思い、ガンを受け止め生きなければと思い抗がん剤治療を受け生きようと思い治療しました。

5年生存率を聞いたときのお気持ちを教えてください。

国立がんセンターの資料によると5年生存率は20%~30%、京大病院では50%という資料を見せてもらい、私は5年生きられるかな?2020年の東京オリンピックは見られるのかな?っていう気持ちだけでした。

3クール目から2泊3日のTC療法に替わります。生活は大変でしたか?

自宅からスーツケースを持って歩いてバス停まで行き、バスで電車の駅に着いて観光客が
沢山乗っている電車で座ることもできず30分位、乗って最寄り駅まで行って、駅から病院まで歩いて行くのに体力が落ちている当時は歩くのも大変でした。スーツケースを持って帽子を被っている私は、一観光客に見えたでしょうね。身体は大変だったのにも関わらず。高齢者でもないので席も勿論譲られるなんてことは、一度もありませんでしたから。仕方ないのかもしれませんが。
夏で気温も高かったので時々休みながらの病院通いでした。治療終わって帰ってからの方が副作用の吐き気や怠さがでていたので家では横になっていることが多く、やっと体力が回復してきたらまた病院という生活は大変でした。
後半は主人が車で病院まで迎えに来てくれて、そのあと会社に行っていたので主人も大変だったと思います。主人も体重がかなり減ったと言っていました。

自宅に自分の居場所がないと感じられたのはなぜですか?

家事ができなくてほとんど主人がしていました。それはとても有難い事だったのですが、主人が出勤前に洗濯物を干し、娘のお弁当も作って夜のご飯の準備までしているのを見ていたら私が居なくても家族はやっていけるのだと思いました。
吐き気が酷い時、味覚障害が出ている時はテーブルにもつかず3人で食事をしているのをリビングで横になって見ている時は私の存在が無いようにも感じられました。
私にはその時、何もできなくて家族の負担になっているのではとさえ思いました。
こんな思いをするのなら病院に居た方が気持ち的にも楽なのかなとも思っていました。

患者友達の方たちの存在意義

ガンの部位は違っても同じガン患者で抗がん剤治療、放射線治療をしている者の気持ちは経験者でしか分からない所があると思います。そのガン患者同士での情報交換、愚痴や励まし合いなどの話、たわいもない会話はとても大切でなくてはならないものだと思います。中には閉鎖的な方も居られるし、そっとしていて欲しい方も居られると思いますが私が出会ったガン患者友達は年代を超えてとても明るく、大切で心の支えでもあります。

治療中の心の浮き沈みに、どのように向き合いましたか?

同じ時期の治療中のガン患者との会話で気持ちに共感してもらったりして、気持ちを切り替えていました。その他には友達にあったりラインしたり、気分転換で好きな音楽を聴いたりDVDを観たり自分のしたいと思うことをしていました。

抗がん剤治療がよく効き、腫瘍マーカーCA125がどんどん下がります。どんなお気持ちでしたか?

嬉しかったです。抗がん剤がよく効くタイプだったみたいで抗がん剤はガンをやっつけてくるけど、様々な副作用が出て正常な細胞も壊す、強い薬なのだなと思いました。
そして副作用で吐き気、食欲不振、味覚障害、手足の痺れも辛かったですが、一番辛いと感じたのは髪の毛がなくなっていくことでした。

抗がん剤治療に対する印象はどのように変わりましたか?

初めのとにかく怖いという印象は薄らぎ、副作用の対処しながら使っていけばガン患者にとってはなくてはならない薬なのだと思います。しかし今も残っている副作用、手足の痺れを感じると抗がん剤は本当に強力な薬なのだと思い知らされます。

TC療法が効き、手術をしないことになります。なぜもっと喜ばれないのですか?

まず、ガン=悪い所は手術で取るというイメージがありました。
そして初めの説明でまず抗がん剤で腫瘍を小さくしてからその後、ガンを取ると言われていたので悪いガンを取って欲しいと思っていました。
抗がん剤だけでガンは無くなるものなのか?と思い、そして予定していた開腹手術をしないと言われたことに不安を感じました。
手術の予定を入れないといけないですねと主治医が言っていた次の日には手術をしないと言われ、納得がいかなかったので。その点では主人も何故手術をしないのか納得がいかないようでした。ただ画像で取るところのガンがないと言われました。同じく抗がん剤治療をしていた仲間が次々手術していくのが少し羨ましくもありました。
今となっては本当に開腹手術をしなかった事は奇跡でラッキーだと思っています。

めでたく寛解を告げられた時のお気持ちを教えてください。

抗がん剤治療から解放される。毎週病院に行かなくてすむと思い嬉しかったです。それとともに再発はしないだろうかと不安もありました。

入院治療中に会社が自動的に退職になったことをどのように感じていらっしゃいますか?

自動的といいますか、自ら契約更新をしなかったという形で退職しました。
更新しようかと非常に悩み色々ガン患者の友達、先輩、友達、家族に相談し出した結果ですが、今は時々あの時更新していたらと思う時があります。

お遍路バスツアーを楽しまれます。このツアーは八尾さんいとってどのようなものですか?

父が四国八十八か所巡りをしていたので興味があり、父がずっと入院していたのと私が再発しないような祈りも込めてバスツアーに妹と参加しました。たまたま2016年に逆内でお遍路を始めると三倍の功徳があると言われも、巡りたいという動機でもありました。
毎月行った所のない場所へ行くのは、やはり楽しかったですし、先達さんの話を聞くのも為になり、温泉に入ったりと気分転換にもなりました。札所へ行くと心も落ち着いていくような感じでした。そして自分は治療を終えこんなに元気にバスツアーに参加できるのだと喜びでもありました。

ショッピングモールの管理事務職員の採用試験に受かった時のお気持ちを教えてください。

まさか私が採用されるなんて、というのがまず一番でした。その当時はウィッグでしたし面接時に健康アンケートというものを書かなくてはいけなかったのですが、そこに過去2年間入院したことがあるか?病名は?とあり正直に記入したのです。記入時間がなかったので面接中、面接官の前で腹膜癌と記入したので絶対不採用だと思っていました。でもその面接官が言ってくださったのは、今は寛解しているのでしょう、再発しないように気をつけたらいいのですよ。と言ってくださった時は、ああ、そうだよねって思いました。

当時とても危険な状況だったと思いますが、いま振り返ってどのように感じられていますか?

なぜ、あんなに酷くなるまで病院に行かなかったのか、自分で我慢しすぎたという後悔はあります。自分で言うのもおかしいですが我慢強い方で我慢強いのもよし悪しと思います。
そして何でも更年期かな?と思っていたのは、いけないことだったと思います。もう少し自分の身体をいたわり、体調がおかしいなと思った時にはちゃんと病院を受診したらよかったと思います。

がんになって失ったもの、得たもの

【得たもの】

  1. 改めて家族、友達のありがたみ
  2. 友達
  3. 当たり前の日常の大切さに気付くこと

【失ったもの】

  1. 仕事
  2. 髪の毛(笑)

大切にしている言葉

人生は一度きり大切に、日々笑って過ごそう

現在治療中の方々に伝えたいこと

治療中は体力的にも精神的にも辛いと思います。一人で抱え込まないで誰でもいいので話を聞いてもらう、話してみるといいと思います。友達でもいいですし、同じガン患者、看護師さんにでも話をする、話をするだけで気持ちはグッと楽になると思います。身体の事は医療従事者でしか分からないところはありますし。同じガン患者はやはり気持ちを分かってもらえると思います。
そして病気のことばかり考えるのではなく、普通の人と同じことをしたらいいと思います。自分の好きな事をして気分転換するとかですかね。
あとは、高額な健康食品などにあまり惑わされないようにして欲しいと思います。
一概には言えないので、ご自身が納得し、身体にあっていれば健康食品も、民間療法もいいとは思います。
あとネット検索してブログを読むのもいいのですが、私もよくしましたが結末がショックなこともありましたので、あまり辛い時はお勧めしません。自分の気持ちがしっかりしていて、受け入れる気持ちがあれば大丈夫だとは思いますが。

現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと

時には患者は落ち込み、八つ当たりや投げやりな言葉を言ってしまうことがあります。
そんな時はとにかく話を聞いてあげて、寄り添ってあげてください。
人にもよるかもしれませんが、わかるわかるって言われても本当にはわからないでしょって気持ちにもなるので、安易な気持ちで、わかるとは言わないで欲しいとも思います。
一緒に考える姿勢、そして一番は病気になる前と同じ接し方でいてあげて欲しいと思います。

八尾さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいこと。

治療が終わってからピアノとお習字を月2回のペースで習いに行き始めました。最近は主人や友達と神社やお寺巡りもしています。近場ですが。
これからは、ヨガや学生時代にしていたテニスもいつか再開したいとは思っています。そして旅行にも行きたいと思っています。その為にはしっかり働かないといけないと思っています。
ガンを経験して一度きりの人生、楽しんで笑って生きていきたいと思い、そしてガンを経験した私だからこそ出来ることをしたいと思っています。今はまだ具体的に何をしたらいいのか、していきたいのか分からないですが、こうしてインタビューにお答えするのもその一つかな?と思っています。

がん患者がしてはいけないこと(3つ)

  1. ストレスを溜めること
  2. イライラすること
  3. 変な情報に惑わされること

がん患者がするべきこと(3つ)

  1. 規則正しい生活
  2. 食生活に気を付け、適度な運動
  3. 笑う事

当時参考にした本

葬られた第二のマクガバン報告 上

>>八尾智子さんの「ストーリー」はこちら

>>八尾智子さんの「がん経済」はこちら

取材:大久保淳一
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