【インタビュー】野崎美穂さん 悪性リンパ腫 ステージ2 サバイバー

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びまん性大細胞型B細胞悪性リンパ腫 ステージ2 サバイバー 野崎美穂さんのインタビューです。

目次

基本情報

名前: 野崎美穂さん >>5yearsプロフィール
年代: 40代、女性
病名: びまん性大細胞型B細胞悪性リンパ腫
病理:
進行:ステージ2 
発症年月: 2015年10月
発生時年齢:41歳
受けた治療: R-CODOX-M/R-IVAC療法
治療期間: 4か月間
職業: 会社員
生命保険会社:ソニー生命保険

>>野崎美穂さんの「ストーリー(がん闘病記)」はこちら

>>野崎美穂さんの「がん経済」はこちら

2014年に仕事のストレスから、夜眠りが浅く、身体がだるいと感じることもありましたが、その時に既にがんが発症していたと思いますか?

その時にはがんではなかったと思います。
2014年11月に帯状疱疹になっていたので、ストレスはかなりたまっていたと思います。

2015年6月、食事が喉を通りにくい経験をします。これは、縦隔にあった腫瘍と関係あると考えられていますか?

がんセンターにいくまでは関係していると思っていましたが、主治医に話したところ、あまり関連性はないのではないかと言われました。

食事が喉を通りにくいというのは、どんな感じで、どれくらいの期間あったのでしょうか?悪化していきましたか?当時の状況を教えてください。

食道の途中でつまってしまい、次の一口がいけない状態でした。口に入れる量を減らし、時間をかけて食べれば、食事はできました。期間としては、気にしていたのは1か月ですが、その後それが当たり前になり、全体的に食べる量が減ったと思います。

2015年夏頃、体調の変化を経験し、「病気だったらいいな」と思います。どんな病気だったらいいと思われていたのですか?

正直あまり具体的には考えていませんでした。
漠然と何かの病気だったらいいな、という感じでした。

やがて、アパートの階段を登るにも息が切れて苦労されます。帰宅するにも歩きたくないという状態だったと聞きます。ご自分では、当時、何が起きていると思われていましたか?

運動不足なのかと思いましたが、気力が足りないからだと思っていました。気力がないのは、精神的にまいっていたからだと思っていて、そこから脱却できない自分をだめな人間だと思って、罪悪感を感じていました。

2015年7月中旬、朝、ドライヤーで髪を乾かしていたら、左腕の二の腕が大きくなっているのを見つけます。右側と比べて、どれくらい差がありましたか?太い意外に何か違いはありましたか?

一回りくらいはおおきくなっていたと思います。

2015年9月中旬、友達と食事をして自撮りしていたときに、二の腕の異常なむくみを見つけます。どれくらい腫れていて、このとき、どのように感じられましたか?

友人に「私の二の腕ってこんなにボンレスハムなの?」ってきいたのを覚えています。
かなりたくましい感じになっていたので、ショックでした。

9月20日に内科クリニックを受診し、リンパ腫の可能性を告げられます。どのように感じられましたか?ご主人は何と言われていましたか?

触診だけでリンパ腫と言われたので、そんなに簡単にそんな大きな病名を言わないでほしい、と思いました。夫には「お医者さんは首をさわっただけでリンパ腫の可能性があると言っていたけど、あんまり信用できないんだよね」といった記憶があります。

9月24日、東京警察病院で胸腺腫の疑いを告げられます。当時のお気持ちを教えてください。

「きょうせんしゅ」という言葉と漢字が一致せず、どこのどんな病気なんだろう、と思いました。最初はがんだとは思いませんでした。

がんセンターという言葉で、心に重くのしかかったと言われました。野崎さんにとって、「腫瘍」と「がん」という言葉は、どのような違いでとらえていらっしゃいましたか?

「腫瘍とは体内にあるコブです。良性と悪性があって、悪性のものがいわゆるがんです」と言われていました。「腫瘍」はすべてが今すぐ治療が必要なものではない、「がん」はすべてが悪性で生命を揺るがすものだという認識でした。

胸腺腫の疑いをご主人にも伝えました。妻が「がんの疑い」と聞けば、心穏やかではないと思いますが、当時、ご主人は、どのように対処されていましたか?

少なからず驚いていたと思いますが、あまりジタバタする感じではありませんでした。
私自身もその時落ち着いて話をしたのですが、今当時の夫の言葉や表情をはっきりと思い出せないのは、自分自身の心がかなり動揺していて周りが見れていなかったからなのかな、と思います。

胸腺腫の疑いから生検を受けました。どのような検査でしたか?

左の鎖骨上の部分を2センチほど切り、細胞を取ってもらいました。
傷口は首のしわと同化して目立たないようにしてくれました。
部分麻酔で、執刀医から「お痛みどうですか?」とずっと聞かれていました。
独り言のように、「ここも取れた、リンパも・・・OKとれた」と言っていたので、呼吸器内科の先生から、リンパも採取するようにオーダーがでていたのだと思います。

胸腺腫の疑い、そして生検と検査が進む期間も会社で仕事をされています。日々、どのようなお気持ちで過ごされていましたか?

いつも通りに仕事をしていましたが、戦線離脱に備えてこっそり引き継ぎ書を造っていました。少し不安はありましたが、「死んでしまうかもしれない」という考えは浮かびませんでした。

生検の結果、東京警察病院で「悪性リンパ腫」の告知をうけます。当時のお気持ちを教えてください。何を思われましたか?ご主人とお父様は何と言われていましたか?

「悪性リンパ腫」ときいて、即座に「白血病」みたいなもので、抗がん剤治療になるのか、と思いました。抗がん剤治療になる、ということがとてもショックでした 。
テレビドラマ等で、ベッドでのたうちまわるくらいの吐き気に襲われるシーンが浮かびました。そして脱毛ということがショックでした。それだけは避けたかったと思いました。
夫もショックを受けていました。「不治の病」という認識があったようです。言葉を失っていました。
父とは直接話していません。母に伝えましたが、みなショックを受けていました。
両親とも「治らない病気」という認識だったようで、両親はしばらく食事が細くなり、母は夜な夜な泣いていたようです。父も親友たちの前で涙を流したと聞いています。

インターネット検索をして色々調べたと伺いました。ネット情報はいかがでしたか?

「胸腺腫」については、ほとんどが悪性、大きさによっては腹腔教手術ができる、1か月くらいの入院が必要、という情報を見つけました。情報が少ないな、と感じました。
「悪性リンパ腫」の場合には、逆に様々な情報があり、どれを信じたらよいのかわかりませんでした。

悪性リンパ腫の事実を会社に伝えます。どのようにして誰に伝え、会社の対応はいかがでしたか?伝える際に気を付けたことはありますか?

先に「胸腺腫」だと伝えてあったので、「診断が変わりまして・・・」と言って伝えました。4か月の入院治療が必要で、その後自宅療養も含めて最低半年はお休みをしなければならなくなりましたので・・・と伝えたところで、仕事の後任の話をしていただきました。気を付けたことは、感情的にならずに事実だけをしっかり伝えることです。
そのようにできたと思っています。

がんセンター中央病院で診察され、主治医から、R-CHOPではなく、R-CODOX-M/R-IVAC療法を勧められます。どのように説明を受けましたか?聞き慣れない治療ですがなぜその治療に決まりましたか?

悪性リンパ腫には50種類以上の型があり、私の病気は非ホジキンびまん性B細胞型大細胞リンパ腫、と言われました。その型は日本で一番多いリンパ腫の型で、R-CHOP療法が標準治療となり、基本的には通いで抗がん剤治療をして、6クールから8クールの治療になります、と言われました。私の場合、「縦隔原発」という枕詞がつき、この枕詞がつくと、ちょっと厄介なタイプで、年齢や病院によってはR-CHOP療法になるけれど、この病院では条件に合えばR-CODOX-M/R-IVAC療法を薦めている、R-CHOPに比べて強い治療である、強い治療ということは副作用も強く出る、通常この療法はバーキットリンパ腫に使う治療法である、イメージとしては白血病の治療みたいな感じ、この治療は65歳以下しか受けられない、私の場合年齢的にもほかの臓器の状況的にもこの治療に耐えうると判断する、他の病院ではDA-EPOCH-R療法を薦めるところがあるが、がんセンターではR-CODOX-M/R-IVAC療法の治療が効果的との結果が出ている、比較するとR-CODOX-M/R-IVAC療法の方が強力だけど短期間で治療が終わる、という説明だったと思います。とてもわかりやすかったし、最初から先生の方針にはよほどのことがない限り従うつもりでいたので、すんなり入ってきました。

4ヶ月も会社を休めることに、安堵されます。当時、死の予兆とか、死の恐怖とかそういった類のものは無かったのでしょうか?

悪性リンパ腫と言われて転院を勧められがんセンターの予約が取れてから、実際に診察していただくまでの期間は、何をしていてもがん細胞が血液の流れにのって体中を巡っている感じがとても不安でした。「死」の恐怖というより、他の臓器に「転移」してしまうんじゃないか、ということが不安でした。
あと、がんセンターは非常に多くの患者さんがいて全国各地から集まってくるので、入院するまでに数か月待ち、とかになってしまうんじゃないかということが不安でした。

CVポートの取り付けについて教えてください。どんなオペで、そのご不自由はありませんでしたか?

私の場合、腫瘤が左にあったからだと思いますが、右鎖骨下部分を1センチくらいきって、中心静脈にカテーテルを入れました。私は2度うけましたが、1度目は全く痛みもなく違和感もなく、あっという間に終わりましたが、2回目はカテーテルが体の中に入っていく際に痛みを感じ、1週間くらい痛みが残りました。
そこからばい菌が入ると感染症につながるので、入浴時にガーゼと防水のテープで補強してもらわないといけない、ということが不便といえば不便でしたが、点滴中に両手が動かせるので、むしろ便利な面が多かったと思います。毎朝の採血もすべてCVポートからできるので、とても便利でした。

抗がん剤治療(R-CODOX-M療法)が開始されます。どんな治療で、副作用はいかがでしたか?

CODOXは初日にドキソルビシン・オンコビン・エンドキサンを点滴し、2日目から5日目まではエンドキサン、7日目にリツキサンを点滴し、9日目にメソトレキセートを24時間かけて点滴をしました。副作用としては、吐き気・骨髄抑制・粘膜障害・脱毛。
脱毛は14日目にやってきました。点滴が終了した後も、薬を体外に出すための水分を24時間点滴を継続していました。1回目のCODOXでは、骨髄抑制は緩やかでした。
私は食欲不振がかなり早い段階からあり、投薬3日目からごはんが食べられなくなりました。またメソトレキセートの副作用である粘膜障害がかなりつらかったです。食べ物を少しでも口にすると、すぐに腹痛、下痢となってしまいます。また口内も炎症をおこし、カットした林檎1キレも、食べるのに30分以上時間がかかっていました。

抗がん剤副作用で、髪を失うことはつらいと思います。当時のお気持ちと様子を教えてください。

昨日まで引っ張っても抜けなかったものが、いきなり櫛を通したときに一気に音もなく抜けていくのが、本当に驚きでした。
ショック、という言葉より、びっくり!!という言葉が先にありました。
えっ?えっ?えー!!!と1人部屋で声を出して驚きました。
その後血球値が回復してから、院内の美容院に行ったとき、鏡に映る自分から、髪の毛がバサバサと雑に切り落とされていったとき、悲しい気持ちがこみ上げてきて、「落ち着け、落ち着け、覚悟をしてここに来たんじゃない?」と言い聞かせても、涙が止まりませんでした。感情が抑えられない、という経験は初めてでした。
ですが、坊主にした後はすっきりした気持ちになりました。思ったより頭の形が良くて、びっくりしました。今では坊主の時の自分の写真はお気に入りです。

第1クール目から、抗がん剤の効果が出ます。当時の様子とお気持ちを教えてください

先生は、「こんなに小さくなりましたよ」といってCT画像を見せてくれましたが、私はもっと小さくなっていると思っていたので、「まだこんなに残ってる」と思いました。

R-IVAC療法はいかがでしたか?

CODOXの回復期を経て、初日から約1か月後にIVACが開始されました。
IVACは初日目、二日目にシタラビン(キロサイド)、エトポシド、イホマイド、それぞれ2時間ずつの点滴で、その後2回目のシタラビンの点滴でした。
3日目から5日目はエトポシドとイホマイドのみとなりました。その後2日あけてリツキサンの投与でした。CODOXでは1日の抗がん剤投薬時間は平均2時間でしたが、IVACは長く、初日と二日目は午前中から深夜まで続きました。
副作用は骨髄抑制・食欲不振・吐き気・脱毛・出血性膀胱炎・結膜炎・角膜炎・薬剤熱。
2日目から発熱がありました。投薬直後から体がだるく、寝ているのか起きているのかわからないくらいぼーっとしていました。このあたりから血球の値が悪化していき、赤血球と血小板の輸血が始まりました。白血球は2回目のCODOXの時に、100にまで落ち込みました。

骨髄抑制により、白血球数の値が異常なまでに下がります。当時の体調、対応について教えてください。

白血球が100まで下がりましたが、それほど自覚はありませんでした。
赤血球が減少すると、貧血の症状が出ました。シャワーの途中でふらついたり、お風呂上りにはベッドまで這って戻ったこともありました。看護師さんからは、無理に歩かずに車いすに乗ることを勧められました。(結局車いすには乗りませんでしたが)
血小板が減少したときには、軽く足をベッドにぶつけただけで、大きな痣ができました。

なぜ、消費期限が切れた生チョコを食べたのでしょうか?

ジャンポールエバンのチョコレートを先輩からいただきました。
食欲がなかったこともあり、元気になったら食べようと思っていました。
元気になってからも、少しずつ大切に食べていました。
大切にしすぎて賞味期限が切れてしまいました。
おなかが痛くて夜も眠れず、何度もトイレにいきました。
入院中に一番不安でした。

帯状疱疹が出たときの様子を教えてください。

午前中にシャワーに入ったら、右胸の下がしみるな、と感じました。
2014年11月にも帯状疱疹を経験していたので、もしかして、と思い鏡で見てみると、赤い水泡ができていました。
12月30日か31日だったと思います。主治医の先生もお正月休みで不在で、看護師さんに「帯状疱疹っぽいんだけどどう思います?」といって見せました。
看護師さんはデジカメで写真を撮りました。たぶん主治医の先生に送ったんだと思います。
結局1月3日までは、水泡がつぶれないように、薬を塗った後ガーゼでカバーしてもらっていました。
1月4日、おそらく病院も仕事初めだったと思いますが、院内感染対策チームが始動したのだと思います。私の部屋内にゴミ箱が設置され、私の治療によって出るゴミが、他の患者さんのものと区別され、個別に回収されたり、お部屋の掃除に入ってくれる人が他の部屋を担当しないようになったり、部屋の入口に「不要不急な入室はしないように」みたいなことが書かれていたりと、隔離のような形になりました。
お湯をもらいに部屋の外に出ることも遠慮し、洗濯もどうしてもしたければ、9時(消灯)以降に、しかも終了したら看護師に報告し、使用後を洗浄してもらわなくてはいけなくなりました。基本的に体が動くなら自分で自分の事をしたかったのですが、この期間中だけ、洗濯を母に頼みました。1月中旬くらいまで続きました。この時にはアピアランスセンターの野澤先生の訪問も、楽しみにしていたお掃除のおじいちゃんも入室できなかったので、本当にさみしい期間でした。

がん治療中にご家族がしてくれたことで感謝していることは何ですか?

週に2回会いに来てくれたことです。
その時に元気な顔で来てくれたこと。
後から聞いたのは、私は治ると思っていたけど両親はそれを疑っていて、もしかして死んでしまうかもしれない、と思いながらも、元気な顔で来てくれたらしいです。

抗がん剤治療入院中、野崎さんは、入院病棟の看護師、掃除のおじちゃんたちに癒されます。何が良かったのでしょうか?

もともとおしゃべりなので、会話がしたかったんだと思います。
お掃除のおじいちゃんは控えめな話し方でとても色んなことを知っていて、いろんなことを教えてもらいました。浜離宮は春先菜の花がきれいで秋はコスモスがきれいだ、とか、晴海ふ頭には海外から大型客船が来る、どのサイトを見るとスケジュールが見れる、とか、病院内の内緒話とか、このお仕事に就く前の仕事の話とか価値観とか。必ず「今日はいいお天気ですね、外の気温はどうですか?」とか私から話しかけていました。
看護師さんたちはみんな穏やかで優しくて、私のおしゃべりにみなさん付き合ってくれました。治療がつらい、というような話はたぶん1回もしていないと思います。
過去に行ったことのある旅行先の話、飛行機好きな看護師さんとは飛行機の話、お酒好きな看護師さんとは、おすすめの居酒屋の話とかお酒の資格の話とか。
病院という非日常の中で、看護師さんやおじいちゃんとの会話の内容が日常的なもので、自分の中でバランスが取れていたんじゃないかと思います。

治療入院中、会社のことはどのように考えて過ごされていましたか?もう、戻りたくないとは思いませんでしたか?

仕事の携帯電話をもって入院しましたが、ほとんど電話が鳴ることはありませんでした。私なんていなくても仕事は回るんだな、と少し悲しい気持ちもありました。
その時、少し離れた病室に入っている方は、お部屋の中で電話しながら仕事をしていましたので、私もそれができたのかな、と思ったりしました。
不安定な時には、私に戻るところはあるんだろうか、と不安になりました。
入院して半月くらいしたとき、所属部署にてプレゼン大会があり、その記念撮影の写真が送られてきました。病気をしなければここに映っていたはずなのに、自分がいない。だけど元からこのメンバーだったような、自分がいなくても違和感のない写真に愕然としました。
戻りたくない、とは思いませんでしたが、自宅療養中の専業主婦期間については思いのほか楽しくて、専業主婦という選択肢もありかもしれない、と思った時期はありました。

治療中、心の浮き沈みに、どのように向き合いましたか?

来客や看護師さんやお掃除のおじいちゃんや野澤先生のおかげで、あまり一人ぼっちで悩む時間はありませんでした。
時々不安定にはなりましたが、夫にぶつけていたような気がします。
どうせ私なんて会社から必要とされていない、とか、退院してから戻るところがなかったらどうしよう、とか、病気に関することではなく仕事に関することばかりでした。
基本的には夫になだめられて、何か別の事を考えるようにしてやり過ごしました。

合計4クールの治療を終えた時、どのようなお気持ちでしたか?

治療が終了したことはうれしかったですが、最後の方はこの居心地の良い環境から出たくない、と思っていました。仕事の悩みもない、家事もやらなくて良い、優しくしてくれる人たちがいる、こんな環境から出たくありませんでした。
再発のことも心配で、いつでも先生に相談ができるという環境に身を置いておきたかったのですが、退院前に先生に再発の件を聞いたら、「今は長かった治療を完遂したことをすなおに喜びましょう」と言ってくれました。
退院日が決まってから、これまでの4か月を思い返し、夜に一人で泣いていました。
退院の前日、翌日お休みの看護師さんが挨拶に来てくれて、そこで号泣。夜勤の看護師さんとも涙のお別れ、そして退院の時仲良くしてくれた看護師さんがハグしてくれて、そこでまた号泣。しばらくはさみしくて仕方がありませんでした。

野崎さんが入院期間中、ご主人はどのようにして生活されていましたか?

以前から自分で自分のことはできる人でしたから、全く心配はしていませんでした。
食べることには困らなかったようですが、洗濯が大変だとは言っていました。
お休みの日には病室に来てくれていたので、体を休めることができなかったのではないかと思います。
退院して家に帰ると、部屋のレイアウトが変わっていました。
私が過ごしやすいように、一人で変えてくれていたようです。

PET-CT検査の結果、寛解を告げられた時のお気持ちを教えてください。

ほっとしました。

野崎さんにとって信頼できる医師とはどんなお医者さんですか?

情報をわかりやすく説明してくれること、不確定なことはあまり言わないこと、
こまめにコミュニケーションをとってくれること
患者の言いたいことに聞く耳を持ってくれること

患者友達の方たちの存在意義について教えてください。

私が入院したばかりのころ、プレドニゾロンの飲み方を教えてくれたのがお友達になったきっかけです。ご自分の病気についてたくさんの書籍を読み研究されていました。主治医の先生と良好な関係を気づきながら、わからないこと、自分が希望することを先生に上手に伝えていました。とても強い方だと思いました。ご自分も治療中であるにも関わらず、私の治療について親身になってくれました。私は抗がん剤のこと、入院生活の事、いろいろ教えてもらいました。入院期間はそれほど一緒ではありませんでしたが、治療に関する不安をぶつけられる数少ない方です。彼女が自家移植をすることになり、予定していたスケジュールの最終日に幹細胞がとれたというメッセージをもらった時、自分の事のようにうれしかったことを思い出します。
今は3人でおいしいものを食べに行ったり、ご自宅に遊びに行ってお料理を教えてもらったりしています。

退院後、旅行するなどして体力回復に努めます。どんな感じに、体調、筋力、体力は回復していきましたか?

体調はほとんど崩すことなく生活できました。主治医の先生からは、温泉・プールを3か月控えること、加湿器は使わないこと、お薬はちゃんと飲む事、と言われていましたので、それはしっかりと守りました。
筋力については、今まで車をよく乗っていたのですが、脚力をつけるために、車の運転を控えてなるべく歩くようにしていました。それは今でも継続しています。
体力回復については、とくに何もしていません。

4月21日に復職されます。その日のことを教えてください。

とても緊張しました。
必要とされていないかもしれない、迎える方も迷惑かもしれない、と思いながら出勤しました。病気前であれば1時間くらいの通勤時間ですが、通常の1.5倍ほどかかってしまいました。

悪性リンパ腫を罹患した後、会社とのコミュニケーションで、気を付けたこと、良かったこと、後悔していることを教えてください。

周りの人に体調のことを心配させないように、体調管理は気を付けました。
休んでいた期間を取り戻したかったので、早く仕事を覚えようと思いましたが、あまり気合いを入れすぎると周囲も心配するので、肩の力を抜いて仕事をするようにしました。
大きな病気をした後だから“これはしてはいけない”ということをあまり作らないようにしようと思いました。後悔していることはあまりありません。

がんを経験して振り返り、いま感じることは何ですか?

色々なことに行き詰っていた時期でしたので、多くの方に迷惑をかけましたが、病気によって立ち止まることができ、リセットすることができたと思っています。
入院中は本当にたくさんの方にお見舞いに来てもらい、たくさんの笑いと勇気をもらいました。多くの方に支えられているんだと実感しました。

時々、何でがんになったんだろう、という疑問の答えがほしくなる時があります。
闘病中は、何かの罰があたったのかもしれない、だから仕方がない、というように考えていました。
何が原因なのかがわかれば、今後はそれを回避できるのに、がんになる因果関係はほとんど判明していないので、些細なことで、再発するんじゃないかと不安になります。

がんになって失ったもの、得たもの

【得たもの】

  1. 感謝する気持ち
  2. 人間関係
  3. 精神的な安定

【失ったもの】

  1. 髪の毛(一時的)

現在治療中の方々に伝えたいこと

恵みのとき の中にある「病気になったら」という詩に出会いました。

病気になったら どんどん泣こう
痛くて眠れないといって泣き
手術がこわいといって涙ぐみ
死にたくないよと めそめそしよう
恥も外聞もいらない
いつものやせ我慢や見えっぱりを捨て
かっこわるく涙をこぼそう
またとないチャンスをもらったのだ
じぶんの弱さをそのまま受け入れるチャンスを

これは詩の一部分ですが、結構闘病ブログなどで色々な人が載せていますが、私もこれを読んで肩の力がおりました。
今闘病をされている方やご家族が闘病されている方にぜひ読んでいただきたい詩です。

現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと

入院中、家族が悲しそうな顔をしているのを見るのが嫌でした。
自分が病気になってしまったせいで、親や夫を苦しめている、と思ってしまいます。
ご家族が病気になられおつらいと思いますが、患者さんの前では明るく居ていただければと思います。

野崎さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいこと。

あまり病気になったことにがんじがらめにならず、行動に制限をしないようにしています。ただ、自分の体を過信せず食生活と適度な運動を心掛けています。
今は仕事を頑張って、結果を出したいと思っています。
今後の事ですが、仕事以外の目標では、自分でパジャマが縫えるようになりたいです。入院中パジャマが唯一おしゃれできるものでしたが、あまり気に入ったものに出会えなかったので、自分で縫えるようになりたいと思いました。入院中、お気に入りのパジャマでいられる日はとても気持ちがよかったし、気合いを入れる日にはお気に入りのパジャマを着るようにしていたので、かわいいデザインのパジャマがもっと簡単に探せるようになったらいいな、と思います。

がん患者がしてはいけないこと

  1. 主治医や看護師の指示を守らないこと

がん患者がするべきこと(3つ)

  1. 自分の体と向き合うこと
  2. 無理をしないこと
  3. 主治医を信じること

周囲から掛けられた言葉で、嬉しかった言葉

  1. 待ってるよ
  2. 抗がん剤は体の中でしっかり働いてくれてるよ(同部屋のお友達から)
  3. 治療中だってお化粧していいのよ(患者は患者らしくいなきゃいけないということはない、ということ)

周囲から掛けられた言葉で、不愉快に感じた言葉

  1. 顔を見ると泣いちゃうからお見舞いにはいけない(死ぬと思われてると感じた)
  2. 血球値が低いから来客禁止にすれば?(感染を心配した夫に言われましたが、人と会っておしゃべりをすることが、私の元気の元だったので、それを奪わないでほしいと思いました)

復職する際に大切なこと

  1. 無理はしない
  2. 守りに入りすぎない
  3. 考える癖をつける(入院中に随分頭の回転が遅くなったと思ったので)

当時参考にした本

グループネクサスの機関紙(お友達に借りた)

>>野崎美穂さんの「ストーリー(がん闘病記)」はこちら

>>野崎美穂さんの「がん経済」はこちら



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