【インタビュー】骨肉腫 柴谷健 さん

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骨肉腫サバイバー柴谷さんへのインタビューです。

目次

基本情報

名前: 柴谷健さん
年代: 50代、男性
病名: 骨肉腫
進行: 不明(転移なし)
発症: 1980年11月(16歳)
治療: 化学療法、放射線治療、外科治療
期間: 1981年 1月~ 1982年 5月
合併症:なし
職業: 学生
生命保険: なし

>>柴谷健さんの がん闘病「ストーリー」記事を読む

住んでいた兵庫県から千葉県に移り入院治療すると言われた時のお気持ち

家族や同級生の友人と離れて入院治療する孤独感のようなものがありました。

抗がん剤とは知らされず強い薬を使っての治療を受けたとき感じたこと

物心ついて初めて吐いておどろきました情けない気持ちになりました。抗がん剤の点滴を打っている期間中は吐き気が止まらず、やめて欲しいと思いました。
思春期だったせいもあり、髪の毛が抜けた時はショックでした。

学校が始まっているにもかかわらず入院治療を受けていたときのお気持ち

学業で同級生から置いていかれている感じがしました。
化学療法や外科治療がないときは、遅れをとるわけにはいかないと思い教科書や参考書を広げてベッドの上で勉強をしていました。

「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ我が子へ」を鑑賞し、他の患者さんから「これじゃないの?」と言われた時の動揺

当時、家族や主治医から別の病名を聞かされていました。テレビのこの番組で主人公の方が同じ症状と同じ治療をされていたので、もしかしたら自分は骨肉腫で主人公の方と同じように最後は天国に行くかもしれないという不安がよぎりました。

骨肉腫とは明かされずに治療を勧められましたが、叔父さんと両親に対する思い

当時、この病気の生存率が低かったので、今思えば骨肉腫と知らされずに別の病気として治療を受けていた事は将来の希望に繋がっていたと思います。

千葉がんセンターで同世代の患者たちと一緒に療中を受けていたときの雰囲気は?

当時、たくさんの同世代の骨肉腫患者が同じ病棟にいたのですが、とても皆さん明るく和気あいあいと楽しく(治療のない時)病院生活を送っていました。

人工関節移植手術を受けたにもかかわらずその後なかなか皮膚移植がうまくいかなかった時のお気持ち

この時期が入院中一番つらい時期で、現実逃避を自分の意思ではじめていました。この状況は夢だと思うようにしていました。

ご自分から切断を申し出たことの重み

人工関節の移植手術を受けてから痛みがひどく、精神的、肉体的に限界が来ていたので、まずは、この痛みから解放されたいという気持ちと、身体障害者になることへのネガティブな気持ちがありました。

大学の友人たち、会社の人たちに自分の左脚のことを明かしていない時のお気持ち

当時、「身体障害者」=「かわいそうな人」という勝手なイメージを持っていたので、左足切断の義足使用者=身体障害者と思われないように、同情されないように健常者を装っていました。

結婚式で「二人三脚」として脚のことを明かした理由

左足がなくても自分個人を理解してくれる奥さんと出会えた事がきっかけで、左足切断・義足使用を隠す理由が見つからなくなったためです。

ご自分は、なぜ、がんサバイバーになれたと思いますか?

家族や友人たちの応援、医師からの当時最善の治療を受けられたこと、近い将来の自分があるべき姿を見つめながら前向きに生きてきたからだと思います。
あとは運もあると思います。

がんになって失ったもの、得たもの

【得たもの】
自分なりのがん治療後の免疫力向上方法

失ったもの】
左脚

大切にしている言葉

あきらめない

現在骨肉腫の治療中の方々に伝えたいこと

自分を信じること
提案された治療内容を全て受けること

身体障害者の方々に伝えたいこと

先天性障害者と後期障害者が分け隔てなく人生を楽しむ場を出来るだけたくさん作りましょう。

いま、やられていること、今後、やろうとされていること。

身体障害者立位テニス、競技指向の高い身体障害者立位テニス

がん患者がしてはいけないこと(3つ)

1.情報に惑わされないこと
2.楽観視しないこと
3.治療を中断しないこと

がん患者がするべきこと(3つ)

1.医師を信じること
2.提案された治療を全て受けること
3.治療後の体にあせらず慣れること

>>柴谷健さんの がん経済記事を読む

取材:大久保淳一

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